「勉強嫌い」は、本当に勉強が嫌いなのか?#014【不易の種】

🟥今回の「不易の種」について

「不易の庭らじお」に、新しいシリーズが加わります。

①「40年目のホームルーム」
②「縁側だより」
に続く3つ目は、③「不易の種」

時代が変わっても大切にしたいこと、未来へそっと手渡していきたいこと。そんな小さな「種」を拾い、今の時代にもう一度問い直してみるシリーズです。

第1回は、
「勉強嫌い」は、本当に勉強が嫌いなのか。

「勉強嫌い」は、本当に勉強が嫌いなのでしょうか。

2010年10月10日の静岡新聞に掲載された、浅川京子さんの教育実践を伝える記事「子供の感覚見取る目を」。私はこの記事を、今も大切に残しています。

自分とは関係のないところから降ってくる勉強が、「これは自分のことだ」とつながったとき、学びは切実なものに変わる。その小さな接点を見つけるのが、教師の「見取り」なのかもしれません。

そして、子どもの小さなサインを見つけ、その意味を考えるために必要なもの。それは「先生の心の余裕」。

16年前の記事から、子どもの学びを考えます。

一枚の古い新聞記事

私の手元に、一枚の古い新聞の切り抜きがあります。

2010年10月10日の静岡新聞に掲載された、浅川陽子先生の教育実践を紹介した記事です。

これが私はとても印象に残っていて、16年間ずっと大切に取ってあります。

記事の中には、学校の勉強にはなかなか気持ちが向かないけれど、ブラックバスという魚には夢中になっている子どもが登場します。

その子の得意な世界に触れたとき、先生も心を動かされます。

そんな小さな出来事が紹介されていました。

記事についての紹介は、このくらいにしておきます。

今日は、このエピソードをきっかけに、私が感じたことを三つお話しします。


一つ目 人と人として出会う

一つ目は、

先生と子どもが、人と人として出会った

ということです。

学校では、先生が教える人、子どもが教わる人になりがちです。

でも、子どもの方がよく知っている世界もある。

そんなとき、先生と子どもという立場を少し離れて、同じものを見て、一緒に驚く。

そこには、対等な人と人との関係が生まれるように、私は感じています。


二つ目 子どもの世界に招待してもらう

二つ目は、

先生が子どもの世界に招待してもらった

ということです。

子どもには、大人が知らない世界があります。

あるいは、大人がいつの間にか忘れてしまった世界もあります。

教師が子どもに世界を教えるだけではなく、ときには子どもの方から、

「こんな面白い世界があるよ」

と教えてもらう。

そうやって、教師自身の世界も広がっていく。

私は、そこにも教育の面白さを感じています。


三つ目 教師も育ててもらっている

三つ目は、

教師も、子どもによって育ててもらっている

ということです。

教師は子どもを教える。

親は子どもを育てる。

でも、教師も子どもによって教師にしてもらい、親も子どもによって親にしてもらっている。

そう考えると、

「この子に何を教えよう」

だけではなく、

「この子は、私にどんな世界を見せてくれるんだろう」

という見方も生まれてきます。

そこには、感謝やリスペクトの気持ちも自然に加わってくるように、私は感じています。


「勉強嫌い」を少し違うところから見る

そして、この三つを考えると、「勉強嫌い」という言葉も、少し違って見えてきます。

学校の勉強には興味を示さなくても、自分の好きなことなら夢中になって調べる。

観察する。

誰かに話したくなる。

そこには、実に素晴らしい「学びの営み」があります。

 実は、「子どもは誰でも心の奥に、もっと知りたい、できるようになりたいという思いをもっている」

こうした子ども観をもつだけでその子を見る目が変わる。

つまり、その子に学ぶ力がないのではなく、

一見勉強嫌いに見える子は、その子の中にある「学び」の入り口が、まだ見つかっていないだけなのかもしれない。

その小さな入り口を見つけること。

私は、それが教師の「見取り」の一つだと感じています。

ただ、「この子の考え、面白いな」

と立ち止まるためには、教師自身に、子どものことを興味深く深掘りできるくらいの心の余裕が必要になります。

この余裕は、時間的なものと考えられがちですが、私はそうとばかりは言えないと思っています。

よく、「読書をしたいけれど、時間がない」という人がいます。そういう人は、実は時間があっても読書をしないのではないかと思います。

それと同じように、「子どもをもっとよく見ようと思うのですが、忙しくて時間がありません。」という人は、時間があっても見ようとはしないのではないかと思います。

「忙しい」という字は、心を亡くす、と書きます。

先ほどの子ども観を根底にした上で、心をこめて見ようとしなければ、見えてはこないでしょう。

このことは、子どもを見取るうえでとても大切なことだと感じています。


16年後に芽を出した種

さて、新しく始まった「ふえきの種」。

いかがでしたか。

第1回は、

「勉強嫌い」は、本当に勉強が嫌いなのか。

2010年の静岡新聞に紹介された浅川陽子先生の実践をきっかけに、私自身が感じたことを三つ、お話ししました。

ずっと心のどこかに残っていた記事。

そして今、もう一度考えてみると、そこからまた新しい気づきが生まれてきた。

一枚の古い新聞記事から、10年以上経って芽が出てきた。

なんだか、いいなあと思うんです。

まさに、新しく始まる「ふえきの種」の第1号にしたい、そんな出来事でした。

そして、今日の一粒は、

「子どもの中にある、学びへの入り口を見つける」

という種です。

子どもは誰でも、心のどこかに、

「知りたい」
「学びたい」
「できるようになりたい」

という思いをもっている。

私は、そう信じて子どもを見ていたいと思っています。

その入り口が、教科書の中にある子もいる。

友達とのかかわりの中にある子もいる。

そして、ときには、ブラックバスのような、私たち大人が思いもしなかったところが入り口の子もいる。

だからこそ、子どもを見ることは興味深く、面白い。

そんなことを、この古い新聞の切り抜きから、改めて感じました。

これからも「ふえきの種」では、昔の出来事だったり、一冊の本だったり、誰かの言葉だったり。

そこから私自身が感じた小さな種を拾って、短い時間でお話ししていきたいと思っています。

その種が、聞いてくださった方の中で、いつか何かの拍子に芽を出してくれたら。

そんなことを楽しみにしながら、続けてみます。

また、ちょっと時間のあるときに、一粒拾いに来てください。