ずいぶんと以前のことではありますが、
これからも度々議論になると思うので書きます。
日経記事「学校パソコン、もう返したい」(2022.2.15)についてです。
この記事は、「義務教育の子どもにパソコンやタブレット端末を一人一台ずつ持たせるGIGAスクール構想が空回りしている」と指摘していました。
その背景として、「日本の学校教育のデジタル活用は主要国で最低レベル。」「(コロナ禍での)遠隔授業の実施率は多くのアジア諸国を下回った。」「GIGAスクールは責任の所在があいまい。」などを挙げています。一人一台ずつ配ったのになぜできないのか?
いかにも教員のパソコン活用に問題があるように見えます。
しかし、本当にそうでしょうか。
私に言わせれば、取材の足りない新聞のミスリードであり、
日本の教職員の自信と、教育に対する国民の信頼を失わせるものです。
結論を申せば、
日本の学校教育が遅れているのではない。
デジタルが日本の学校教育に追い付いていない。
子どもを取り巻くネット利用の法整備、環境整備も遅れている。
だから使われない。
ということです。
ネット利用の法整備、環境整備については米国が進んでいます。
新聞が真に世の中のために何かしようと思ったら、せめてこうした状況をもっと深掘りしてほしいものです。
ただし、行政(指導主事を除く)や権威ある大学等の研究者(学級担任経験のない人)にも見えていない日本の授業の特質があることも、簡単に深掘りできない理由であると考えます。
例えば、算数の一時間の授業を考えてみましょう。
諸外国の授業は、教師による解き方の説明、簡単なものから練習し、難しい応用と、おおよそこんなパーツの組み合わせになっており、いわゆる学習塾の型が一般的です。
だから、どの場面をみても何をしているのかがわかる。どの先生でも、どのクラスでもおよそ似たような風景になるでしょう。違うのは子どもたちの集中度のちがいくらいでしょう。
一方、日本では、問題の提示がおこなわれたのちに、子どもが解答の予想を自分で考え、意見を発表し合います。解答がわかっても、どうしてそうなのか、どの考えがよいのか比較したり、共通点を見出したり、と正解と誤答という仕分けの次元を超えて、皆の考えが融合されて結論を導こうとします。
これを現場では練り合いと呼んでいます。だから、授業の初めから見ていないと、何が何だかわからなくなるのです。〇〇さんが言ったことは間違いだけど、考えるきっかけになったね。ありがとう。などと言われても、途中から見たのではどんなきっかけになったのかわからないのです。当然、同じ問題と解答でもクラスが違えば、授業の展開はクラスごとにストーリーが違います。
ちなみに、諸外国では、誤答を長時間扱うことは、間違えた子に対する虐待ととらえ、教師は職を失うこともあるらしいのですが、日本ではその次元をはるかに超えています。「教室は間違えるところだ」という標語を掲げる担任もいるほど、まちがったことが大事にされ、お互いの学び、学級の財産にしているのです。だから、協力するのは当たり前、困っている人がいたら「だいじょうぶ?」と声をかけるのも当たり前。財布の落し物は、落として困っている人のことを考えて交番に届けるのも当たり前。つまり、日本の教室ではその人の身になって考えをめぐらすということを毎日、毎時間行っており、授業が道徳的実践力を養う場になっているのです。最近話題になった山崎エマ監督の「小学校」のキャッチコピー「6歳児は世界のどこでも同じようだけれど、12歳になる頃には、日本の子どもは日本人になっている」という言葉はまさにこのことを言い当てていると私は思います。さらに、山崎エマ監督は、「それでも息子を日本の小学校に通わせたい」(新潮新書)と題して著作を2026年3月に出版しています。
話を授業の展開に戻します。練り合いは、問題解決学習の中核であり、練り合いの途中で生ずる問題は当初の学習課題とは別に、学習問題と呼ばれ、現場では大変重要視されています。互いに授業を見合って研修することを、「研究授業」と言いますが、ここでは教師が集まって一つの授業を参観した後の話し合いで、「学習問題は適切であったか」ということがよく話題になります。子どもが課題を解決するのに乗り越えるべき一番のハードルとなったものは何だったのか、どんなハードルが共有されていたかということを議論するのです。
そのため、授業者が授業案を作成する際に、教師が協同で行う「授業研究」や「事前研修」では、練り合いの途中で生まれる学習問題を皆で話し合います。私も思い起こせば「これが学習問題だ!」と見つけた時は、宝物を見つけたような気持ちになったものです。
教師は、こうした一連の問題解決学習こそが、子どもの学習意欲を引き出し、思考力を養い、生きて働く知識、理解になると信じています。
しかも、練り合いのできる学習集団にすることが学級経営であり、究極は、授業=生徒指導だと考えています。そして、この積み上げの先に教育の目的である子どもの人格の完成があると考えています。
こうした授業を、小学校ではほぼ全教科で行っています。ドリル的にパーツを組み合わせる授業で良いなら、きっと日本の教師は簡単にやってのけるでしょう。しかし、それでは教育基本法の「人格の完成を目指す」教育ではなくなってしまうのです。
日本の授業がパソコン、オンラインで簡単にできない最大の理由がここにあります。子どもの表れで語る授業研究の質の高さ、厳しさを考えれば、実際に授業をしたことのない研究者が開発したものでは使いものにならないのは明白です。
つまり、ソフトウェアが日本の教師の授業力に追い付いていないのです。ここを見誤ると、日本はこれまでの学校教育の大きな財産を失うことになります。もっと言えば、今後ますます発達するであろうAIでさえ、構築できない世界を創り出すことができるのが、日本の授業ではないかと思うのです。AIが人間を超えるなどということを恐れる必要のない世界を実現する可能性があると思うのです。
授業の研究では米国の第一人者であるカリフォルニア大学ロサンゼルス校心理学教授 ジェームズ・W・スティグラーは、「日本の算数・数学教育に学べ」で次のように述べています。
・授業研究は長期的、持続的改善モデルに基づく。(文化的営みにおける変化は緩やかに、漸進的になされ、現存する日常性の上に打ち立てられる)
・授業研究は児童・生徒の学習に不断に焦点化される。(米では学習成果でなく一時的熱中)
・日本の教師は、教師と研究者との両方の機能を果たす。(開発された知識は高度に共有)
・授業研究は協同的。授業者に責任はなく徹底的に批判できる。これが教師を最終点に導く。
・授業研究に参加する教師は、自己の専門職的能力に対してだけでなく、学習指導に関する知識の開発にも貢献するとみている。
・学習指導は文化的システムであるので変えることは困難だが、日本の場合がその可能性を示している。私達の提案の核心は、日本の授業研究の仕組みと類似するものをここ米国に作り上げること。
学校パソコンを授業で使ってもらえるものにするためには、現場の実践の積み重ねがどうしても必要であり、子どもの学ぶ姿によって得られた知見を生かす体制づくりと、学校現場における熟成期間、工夫できる時間の保障が求められると思います。
その意味で、教育委員会には、過去のよい財産を散逸させず恩送りする努力と、今こそ必要な現場の豊かな知見を蓄積し、新しい技術を活かした授業の工夫改善を支援する体制整備に向けた取組がもとめられます。
実現すれば、遅れていたデジタル化が、間違いなく世界一になり、日本の授業や研修のすばらしい財産が海外で活用され、世界の子どもの幸せに貢献できると考えます。